正覚寺は福井県越前市に位置し、一三六六年(貞治五年)、良如上人によって建立された浄土宗寺院である。山内には五つの塔頭寺院を持つ。
この地は、南北朝時代に越前守護職であった足利(斯波)高経の手により新善光寺城が築き上げられたが、一三三八年、新田義貞との戦により焼失した。
その新善光寺城跡に建てられたのが正覚寺であり、今でも境内の一画に土塁跡が残っている。
墓地には、結城秀康の四男で本多富正の養子となり六歳で亡くなった吉松丸(超岳院殿)の墓がある。
開山の良如上人は、真宗三門徒派本山祖の如導上人と親鸞聖人の孫娘玉垂姫との嫡男であるが、浄土宗に転じて、正覚寺を建立されたのである。
福井県に浄土宗、念仏の教えが弘通したのはこれが最初である。
その後は、福井県に四十八ヶ寺を建立し、一四一二年、六九歳の時にその生涯を終え、極楽浄土へと召された。
山門は、正面約三.二六メートル、側面約二.〇五メートルの切妻屋根の小さな単層の門である。
主柱の外側両脇に潜り付きの袖壁があり、これを含めると、正面の幅は約六メートルになる。
門を潜ると、両側左右に控え柱があって、主柱と貫や梁でつながっている。
またその上方には本屋根と別の小部屋が突き出している。
このような門の形式は高麗門と呼ばれ、お城の門に多い形式である。
この山門は、江戸後期の建築である「旧府中城表門」を明治初期に移築したものである。
府中城とは、江戸時代の武生、つまり府中の領主である福井松平家の筆頭家老本多家の御館である。
高くそびえる天守がないため、今でいう「お城」とは少々異なる。
しかし藩政の中心的施設であり、また殿様の住まいがあったりしていたため、本多家の御館は府中城を指しているのである。
山門の柱や梁などは木太く、武骨であり、城門の雰囲気が漂っている。
しかしこの門の注目すべき点は屋根の石瓦である。
福井市の足羽山麓で採掘された笏谷石でつくられた石の瓦が葺かれている。
また丸瓦と平瓦を用いた本瓦葺きである。
この葺き方は飛鳥時代に仏教とともに日本に伝わってきたもので、古代寺院の瓦屋根の葺き方である。
今日、広く見られる桟瓦葺きに比べ、重厚感がある。
笏谷石は越前青石とも呼ばれ、古代から戦後に至るまで、石棺や墓石、家の敷石や基礎石、石塀、鬼瓦などに広く利用されてきた。
幕末から明治にかけては北前船で運び出され、日本海沿岸の各地で重宝がられた石でもある。
現在では、その採掘も中止され、国指定文化財の丸岡城天守などに例をみるだけである。
この山門は、本多家御館にかかわる、現存する唯一の建築物となるので、二〇〇一年一二月の市の文化財に指定された。
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正覚寺はここ越前市で六五〇年以上の歴史を持つ浄土宗の寺院であります。
浄土宗を開かれた法然上人の教えは、「南無阿弥陀仏」というお念仏をお称えすることです。
お念仏をお称えすること、それは心の平安へと繋がっております。
お寺離れがささやかれる昨今でありますが、お寺には現代において、ここにしかない平安があると信じております。
地域、そしてそこに住まれる皆様において、心の拠り所となれるように努めてまいりますので、何卒よろしくお願いいたします。
南無阿弥陀仏
本堂は開山以来、火災で三度焼失しており、現在の本堂で約一五〇年前に再建立されたものである。
本堂内には、正面に阿弥陀如来像(市指定文化財)を祀り、その両側には、善導大師像と法然上人像をお祀りしている。
【指定】平成十三年十二月
【正面】三.二七メートル
【側面】二.〇五メートル
【建立年代】江戸時代
この山門は、旧府中城の表門を移築した高麗門です。
両脇に潜戸を付け、石瓦を葺き、木柄も太く、城門にふさわしい堂々とした造りになっています。
城郭の門の数少ない遺構としても貴重です。
正覚寺では、墓地もご用意しております。
自然に囲まれ、墓地としての壮厳さをもっています。
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